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~ディノ・ガレル~

 まぶたの向こうで、誰かの泣き叫ぶ声がする。
 この声は――そう、クレールの声だ。

 ――強い女性だと思っていた。
 僕より。ローリーより。ロミーナ姉さんよりも。
 どんなときも絶対に人前で弱みを見せたりはしなかった。
 ――それなのに。
 泣いてくれるのか。僕のために。
 嬉しくて……切ない。泣いているクレールを前に、なにをすることもできないなんて。この体さえ動くなら、彼女の涙を拭いてあげられるのに……。


 ――涙。
 ――涙。
 ――涙。
 多くの涙を見てきた。
 異形成腫活化病が蔓延するこの都では、安らかな死など望めない。涙を流す理由には事欠かないのが、アムルパーレという街だ。
 誰もが苦しんでいる。誰もが悲しみを抱えている。
 ――ロミーナ姉さんも。
 ――クレールも。
 ――ローリーも。
 ――エルメルも。
 悲しみに暮れる彼女らを。
 痛みに打ち震える彼らを。
 過去に苛まれるみんなを。
 僕は少しでも癒してあげられていただろうか。力になれていただろうか――。



 ――気がつくと、僕は石造り亭の前に立ち尽くしていた。
 心臓を撃ち抜かれたはずなのに、体調は悪くない。むしろ普段よりも体が軽い気さえする。
 歩き出そうとしたその途端、スラックスの裾を踏みつけてしまい、派手に転んだ。
「う……?」
 なんだろう。スラックスが……長い……?
 立ち上がろうと地面に手をついた。地面に置かれた自身の手を見て、僕は愕然とした。
 コートの先に……手がない。
 ……いや。手はあるけれど、袖の中に入り込んでしまっている。
 立ち上がり、袖まくりして自分の手を見つめる。細く、小さく、頼りない手の平が目の前にあった。
 ――すぐにピンときた。これはロミーナ姉さんのときと同じなんだ。
 誰かが赤の魔剣かなにかを用い、僕を幼少期の体に若返らせた。恐らくは、異形成腫活化病を治療するために。
 ……そうだ。僕は見放された者だった。その状態で、クレールやローリーと会っていた。
「ローリー?」
 辺りを見渡してみても、ローリーの姿は確認できない。彼はどこへ行ってしまったのだろう。
 確か……別れの言葉を聞いた気がする。生きているから安心してほしい……とも言っていた。僕は彼に助けられた……のか……? いったいどうやって……。
 ――ともかく、こうして考え込んでいてもが明かない。服がこのままでは歩きづらいし、一度家に帰って身支度を整えた方がいい。
 スラックスの裾をまくり上げ、コートを丸めて歩き出した。――と、十字路を曲がったところで、軍服を着た数人の男たちが通りへとなだれ込んできた。
 憲兵隊だ。誰かから連絡を受け、見放された者を『処理』しにやってきたのだろう。
「おい。この辺りで見放された者を見なかったか」
 先頭の憲兵が、威圧的な口調で尋ねてきた。
「誰とも会わなかったですが?」
 わざとらしく首を傾げてみせる。
 この憲兵らは『コートを着た成人男性が変異した』と聞いてここまでやってきたはずだ。今の僕を見て、見放された者と疑う可能性は低いだろう。
 その予測通り、憲兵隊はあさっての方向へと駆け出していった。それを尻目に、悠々と自宅へ向かう。

 ――沢山のものを失った。エルメルも……多分ローリーも、もう二度と会うことはないだろう。クレールとだって、仲違いしたままだ。
 あらゆるものが、この手からこぼれていく。家族も――友達も――大切なもの全てが失われていく。3年前のあの日から、ずっと……。
 未来に待ち受けているのは絶望だけかもしれない。これから先、失うことばかりを経験し続けることになるかもしれない。それでも僕は前へ進めるのだろうか。
 ……いや。
 どんなに大きな不安を抱えていたとしても、僕はきっと生きることを諦めたりしないだろう。
 世界は見放されてなんかいないと、『僕も』そう信じているのだから――。



 家の前にクレールが立っている。途方に暮れた表情で、じっと玄関扉を見つめて。
 ロミーナ姉さんに僕のことをどう話すべきか決めあぐねているのだろう。
「クレール」
 近づいて声をかける。クレールがこちらに気づいて振り向いた。
「……ん?」
 クレールは訝しげにじっと僕の顔を凝視して――――数秒後、目を大きく見開き、その場から飛び退いた。
「待ってクレール。僕はもう見放されてないよ」
 クレールを刺激しないよう、努めて穏やかに話しかける。
 まあ、警戒されるのも無理はない。ついさっきまでは見放された者だったのだから。おまけに体も縮んでしまっている。恐がるなという方が無理な話だろう。
「だって、おかしいでしょ。さっきは見放されてたのに……」
「脳が変異してたらまともに話せないよ。大丈夫――だと思う」
「……本当に」
 クレールの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「本当にディノなの……? 幻じゃなくて……?」
 こういうとき、なにを口に出せばいいのだろう。泣き出しそうなクレールの顔を見たら、言おうと思っていたことが全部、頭の中から消し飛んでしまった。
 胸がいっぱいで、気の利いた台詞が出てこない。最初に思い浮かんだ言葉は……『おかえり』だった。
「おかえりクレール。もう勝手にいなくなったら駄目だよ」
 なんだかひどく回り道をしてしまったけれど、こうして彼女は帰ってきてくれた。そのことが今、素直に嬉しい。
「……うん。ただいま」
 ――クレールが微笑んだ。
 こんなにも安らかな彼女の笑みを、僕は今日まで見たことがなかった。
 いつもどこか気を張り詰めていた彼女の心に、今ようやく触れることができた。
 僕は失うことばかりを経験してきたわけじゃなかった。手に入れたものも沢山ある。形には変えられない大切なものを――。
 クレールの顔をそっと両手で挟み込んだ。今は僕の方が小さいから、こうしなければ届かない。
 少し困ったように笑って、クレールが背を丸める。どちらからともなくまぶたを閉じ、唇を寄せ合う。
 多くの人が行き交う石造りの街中で、僕たちは長い口付けを交わした――――。


「それにしても、なんで小さくなっちゃったの? 後遺症?」
 僕の頭を撫でつつクレールが尋ねてきた。子供扱いされているようで、あまりいい気はしない。
「見放される前の状態に戻されたらしい。戻され過ぎて、こんな風になってしまったけど……」
 乳幼児まで戻されなくて助かった。もしそうなっていたら、ここまでたどり着くこともできなかっただろう。
「誰にやられたの? あの魔剣の子?」
「……ローリーだと思う。多分、見放された者の能力で治したんだろう」
「あいつ……」
 クレールが奥歯を噛み締めた。二人の間にどんなやり取りがあったか定かではないけれど、ローリーがしたことは彼女にとって想定外の行動だったらしい。
 話し声が家の中まで聞こえたのだろうか。不意に自宅玄関の扉が開かれ、ロミーナ姉さんが顔を出した。
「…………あーっ! ディノだ! あたしの知ってるディノだ!」
 姉さんが大きな声を上げ、外へと飛び出してきた。
「ディノもタイムスリップしたの?」
「僕の場合は若返りかな。体は小さくても、心は大人だったときのままだよ」
 ロミーナ姉さんは嬉しそうに笑っている。もっと驚かれるかと思っていたけれど、早くも順応しているようだ。姉さんからすれば今の僕の方が馴染み深い姿なのだろう。
「……で、これからどうするの? 戸籍とか作り直す?」
 クレールが尋ねてくる。
「21歳で通そう。体はそのうち大きくなるだろうし、今のままで問題ない」
 別人になろうとすれば、僕が大学を卒業した事実もなくなる。そうなれば書類を作成する仕事が請けられなくなってしまう。
「とりあえず一度着替えたいな。この服だと動きづらくて」
 家の中に入り、自室で短ズボンと襟付きの半袖シャツに着替える。腰が細すぎてベルトも合わないので、代わりに紐で縛り上げた。これでもかなり大きいけれど、普通に歩けるだけさっきよりましだ。
 靴はクレールが替え用として持っていたものを借りることにした。サイズは少し大きい程度で問題なさそうだ。彼女が小柄なおかげで助かった。
「ディノ! ちょっと来てディノ!」
 玄関先でロミーナ姉さんが呼んでいる。なんだかあわてているような声だ。
 靴のかかとを直し、早足で玄関へと向かう。
 玄関から外に出ると、クレールとロミーナ姉さんがこちらを向いた。二人とも不安げな表情をしている。
「なにか変なの……」
 ロミーナ姉さんがつぶやいた直後、タイミングを待っていたかのように、どこからか悲鳴がこだました。
「なんだ……?」
 様子を見に行こうとしたそのとき、今度は別の方向から叫び声が聞こえてきた。街中の至るところで声が響いている。
 近所に住む人や通りがかった人たちも、皆一様に緊張した面持ちを見せていた。いったいなにが起きているのだろう……。
 大きな影が僕たちの真上を横切った。思わず顔を上へ向ける。なにかが上空を飛び回っているのが見えた。
 空に舞う獣……。
 ――鳥……? いや……。
 この位置から確認できる獣の輪郭は、人間のそれだ。どういう物理現象が働いているのか。翼もない人の形をしたものが、空中を旋回している。
「――ディノ! あっち!」
 通りのずっと先を見て、ロミーナ姉さんが焦燥に満ちた声を上げた。視線の向こうには、くねくねと動く白い人の形をしたものがいる。
「こっちもみたい……」
 反対方向をにらみつけ、クレールがつぶやいた。振り向くと、大樽に手足の生えたような物体が、立ち並ぶ家々を手当たり次第に壊し回っているのが見えた。
 あちらにも、こちらにも、上空にも……。
 何度も見てきたからわかる。あれは見放された者たちだ。同時に三人以上も発症する光景を見るのは初めてだが……。
「冗談でしょ……。ローリーの言ってたことが本当になったっていうの……?」
 油断なく辺りに視線を走らせつつ、クレールがつぶやいた。
「ローリーは、なんて?」
「霧が晴れると、街が見放された者であふれるって……。でもそんなの、またいい加減なこと言ってただけだと……」
 街が見放された者であふれる……。その状況を、想定していないわけじゃなかった。エルメルが歌声の主を捕らえにいくと言っていたときから、こうなるかもしれないとある程度予測はできていた。
「以前、姉さ……いや、見放された者になった人から気になる話を聞いた。『歌を拒絶したから見放された』――って」
「歌って……死を招く歌声のこと? あれって、異形成腫活化病の元凶だったんじゃないの?」
「僕が見放されたとき、歌声は聞かなかった。この前の出兵で、歌声の主はどこかへ行ってしまったんじゃないかな。あるいは捕らえられたか死んでしまったのかもしれない」
 エルメルが出立したあの時点では『可能性がある』くらいの推論に過ぎなかったけれど……。実際にこうして見放された者が大発生してしまった。もはやここでまごついている猶予はない。とにかく動き出さなければ……。
「思うに、死を招く歌声は異形成腫活化病への抑止力だったんじゃないか。それが消えてしまって……今度は霧が出た。あの霧も歌と同じで、見放された者の発生を抑制するために放たれたんだろう。歌声が響かなくなってしまったから、誰かが霧を散布したんだ」
 なにか思い当たる節でもあったのか、クレールがハッと顔を上げてこちらに向き直った。
「――そういえば、あの霧。虹の眼の子が出してた……!」
「となると……この状況はまずいな……」
 やはりあの霧は、見放された者の発生を防ぐために、虹色の眼の少女が拡散させていたものだった。それが消えた今――また、死を招く歌声も響かない今は、全ての死者が見放された者と化す最悪の状況。
 死者が死者を生み、見放された者を大発生させてしまう恐れがある。
 魔剣を手にしているとはいえ、もう僕とクレールだけでどうにかできる話じゃない。周りの人らに避難するよう呼びかけながら、僕たち自身も早急に帝都を脱出しなければ。
「クレール」
 名前を呼ぶと、クレールは短くうなずいた。おろおろするばかりのロミーナ姉さんに「一緒に逃げるのよ」と声をかけ、右手に緑の魔剣を握り締める。
 そうして最初の一歩を踏み出そうとしたそのとき、クレールがなにかに気づいて立ち止まった。
「ディノ……! あいつが……!」
 クレールが目を細め、魔剣を両手で持ち直した。険しくなった視線の先に『最大の障害』が立ちはだかっていた。
 血染めの布を身にまとい、静かに佇む銀髪の少女――。
 物憂げなその横顔には、真新しい血がべったりと付着していた。疲れ切った虹の瞳で青空を見つめ、すぼめた口から息を吐き出している。
「なにしに来たの」
 一段低い声でクレールが尋ねた。それを受けて、少女がこちらへと振り向く。
「貴方がたを殺しに」
 左肩の辺りから右の腰へかけて、虹色の眼の少女が右手を素早く振った。真っ白なその手に、透き通った色の剣が握られていた。
「守るべき者はこの世を去り……果たすべき約束も失った……。故に私は本来の役割を果たします。全てを無に帰すという、本来の役目を……」
 語りながら、虹色の眼の少女が近づいてくる。早くも遅くもないペースで。
「憲兵たちを殺したの?」
「殺めはしません。が、剣のイモータルを欲する愚か者共々、それなりの報いは受けて頂きました。……哀れなものです。力に溺れる者の末路は皆」
 少女が歩みを止めた。距離は――飛び込めば僕とクレールに一太刀が届く程度。剣の間合いだ。
剣に拠りて生きる者は、剣に因りて死にゆくが定め――
 虹色の目の少女が両手で剣を静かに持ち上げ、水平に構えた。腕を曲げ、剣の柄をこめかみに引き寄せて、半身になりつつ強くにらみつけてくる。
「踊りて、うつろい、露と消える――。これも殺戮の化身たる私の宿命なのでしょう。なればこそ、私は最期まで戦わねばなりません」
 剣先をこちらに向けたまま、腰を深く落として静止する。滑らかで無駄のない一連の動作に、僕は思わず見入ってしまった。
「水のイモータルは大陸を沈め、6000万人の命を奪い……火のイモータルは原野を焼き払い、緑の地を砂漠に変えました……。私の存在もまた、世界を破壊するシステムの一端なのかもしれません」
 構えたその姿は、あたかも剣そのもののよう。一切の飾りを削ぎ落とし、人を殺傷するためだけの目的で作られた、一振りの刀剣――。色気はなく、ゆとりもなく、それでいて洗練された機能美がある。向けられた矛先に、吸い寄せられてしまいそうだ。
「さあ、始めましょう。石造りの街が榮域となる前に。互いの存命を賭けて、いざ尋常に――勝負ですよ」
 虹色の眼の少女は身構えたまま動かない。切っ先のように鋭い視線が、こちらをじっと捉えていた。
 ――僕たちを殺す? 本気なのか……?
 真意は読めないが、ただで逃がしてはもらえなさそうだ。足元に突き立った赤の魔剣をつかみ取り、構えないまま少女を見つめる。
 赤の魔剣は異常を検知してくれない。いつもなら見えてくるはずの数式が、虹色の眼の少女の周りには浮かんでこない。どうやら彼女は、存在として認識されていないようだ。これではなにをすることもできない。刀身を叩きつければ効果はあるかもしれないが……。
「――露草罔象女。万里を越えて押し寄せる波濤引く船をも揺るがさず、ただ眼前の敵のみを――――」
 虹色の眼の少女が、小さな声でなにやらつぶやき出した。よく聞き取れない……が、単なる言葉遊びに興じているわけではなさそうだ。
 ――尖った雰囲気が肌に突き刺さってくる。少女はつぶやいているだけなのに、殺気と緊張感が高まっていく。
 クレールも異様な気配を感じ取ったのか、いつでも動き出せるよう身構えていた。それに習って僕も重心を落とした。しかし、そんなことで魔剣の能力に対応できるのか……?
「――――打ち砕け!」
 少女が叫ぶと同時、藍の魔剣がまばゆい光を放った。――しかし、それ以外なにも起こらない。攻撃は飛んでこないし、少女自身が斬りかかってくるわけでもない。
「ディノ……。なにか聞こえない?」
 小さな声でクレールが尋ねてくる。耳を澄ますと、確かにどこからか音が聞こえてきていた。
 ……遠くから地鳴りのような音が近づいてくる。



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テーマ : 自作小説(ファンタジー)
ジャンル : 小説・文学

~ロランベル・アルジェント~

 クレールが去って、ディノと二人きり。見つめ合いながら、静かに距離を縮めていく。
 ――こうなることは予想できなかった。僕の与り知らないところで、ディノが見放された者になってしまうなんて。
 彼はきっと、クレールを守るためにああなったんだろう。見てきたわけじゃないけど、なんとなく想像はつく。
 僕にはわかる。ディノのことをずっと見てきたから。彼自身以上に、彼のことをよく知っているから……。
 ディノはクレールと一緒に生きる道を選んだ。これから先なにが待っているのか僕は知らないけど、彼がそれを選んだのなら全力でサポートするだけだ。
 ディノとクレールのために。二人が作る未来のために。僕は全てを投げ打とう。
 きっとそれだけが、僕の生まれてきた意味だろうから――。
「さあ。おいでディノ。少し目を覚まそうか」
 ディノはゆっくりと近づいてくる。狂気を宿した右目でこちらを見据えながら。
「僕と君は別々の道を行くことになるかもしれない。でも安心して。ここじゃないどこかで、僕も希望を見つけるために生きてる。どうか君も精一杯生き抜いてほしい」
 僕の声は、彼にちゃんと届いているだろうか。届いていると……信じたい。
 これはディノに捧げる言葉であると同時に、僕自身へのメッセージでもある。明日を生きるために唄う、賛美の歌声――。
「大丈夫。今がどんなに苦しくても、苦しいことがずっと続いていても……。世界は見放されてなんかいない。誰だって希望をつかむことはできる。――僕はそう信じるよ」
 息がかかるくらいすぐ近くまで、ディノがやってきた。両手を広げ、僕は彼を迎え入れる。
 見放された者たちを恐ろしいとは思わない。彼らはみんな、想いの伝え方が下手な子供たちだ。誰のことも傷つけたいとは思っていない。
 多くの見放された者を見てきたからこそ、強く思う。人は元来、愛情と思いやりに満ちた温かい存在なのだと。
「さよならディノ。君の前途に多くの幸せが実ることを祈るよ」
 黒く染まったディノの右腕が、僕の首にかかった。振り払おうと思えば簡単にそれができる程度の力で、ゆっくり……ゆっくりと締め上げてくる。
 ディノの左目から涙がこぼれた。
 ――ああ。やっぱり彼は優しい。見放された者になっても、僕の身を案じてくれている。
 手を伸ばし、指先でそっとディノの涙をすくった。彼を少しでも安心させるために、安らかな笑顔を作りながら。
 大丈夫。悲しむことはない。僕にはまだ多くの時間が残されているのだから……。

 
 BAD END・・・?
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テーマ : 自作小説(ファンタジー)
ジャンル : 小説・文学

~クレール・ラナ~

 虹眼の少女は会話に心が傾き油断している。


 ――やるなら今しかない。戦いの基本は先手必勝だ。機を逃せばその瞬間に勝利は遠のく。
 ナイフを正面に構え、駆け出した――――その瞬間。
 不意の破裂音があたしの前進を止めた。考えるよりも先に足が動き、横っ飛びして地面に転がる。手入れされていない庭の草花がからみついてきたけど、気にしている余裕はない。
 ――今のは銃声だった。誰かが撃ってきた。この深い霧の中で――。
 恐らくは単発銃だろうけど、二発目が飛んでこないとも限らない。棒立ちしていれば的になるだけ。身をかがめて、じっと様子を見守る。
 重い足音を響かせて、軍服を着た複数の男たちが敷地内に進入してきた。霧が目くらましになっているおかげで、こちらに気づいている様子はない。
剣のイモータルを狙う者が、まだいましたか」
 他人事のようにつぶやいて、虹眼の少女は肩を押さえた。その手に握り締めていた黄金色の魔剣がこぼれ落ち、霧と草に紛れて見えなくなる。運悪くさっきの銃弾が命中したらしい。
 ……景色が濃度を増した。帝都を白く染め上げていた霧が、徐々に薄れていく。肩を撃たれたことで、霧を発生させていた何らかの能力が解除されたんだろう。
 軍服を着た男の一人がこちらに気づき、手にした小銃の銃口を向けてきた。引き金に指がかかっていないところを見ると、さっきの発砲音はこの男が撃ったときのものなのかもしれない。
「連れていけ」
 誰かが後ろで指示を出し、虹眼の少女を複数の男たちが取り囲んだ。こいつら……まさか彼女が目当てでここに……?
「目撃者がいます」
 目の前の男が、こちらに銃口を向けたまま言った。すぐに「殺せ」と指示が返ってきて、男が銃の撃鉄を起こした。
 ――まずい。撃たれる。
 男の人差し指が引き金にかかった。迷いなくトリガーが引かれ、乾いた銃声が一つ――鳴った。
 ――子供の頃に聞いたことがある。銃弾には毒が混じっていて、当たっただけで人を死に至らしめると。でもそれが真っ赤な嘘だということは、この体で実証済みだ。急所さえ避けられれば問題ない。
 ナイフと腕で頭と首を防御する。放たれた銃弾がナイフに命中し、高い金属音を響かせて飛んでいった。
 ――場所が悪い。銃弾を避けられるだけのスペースがないし、逃げ道もふさがれている。
 足元には緑の魔剣が突き立っている。
 こういう非常事態において、いつも頼りにしてきた武器。だけど今は……それを手に取ることが恐ろしかった。
 生死がかかったこんなときなのに。戦わなければ生き残れないことは、嫌というほど身にしみていたはずなのに――。
 この手でディノの友人を撃った忌まわしい記憶が、あたしに使用をためらわせている。体が魔剣を拒絶している。また不幸を招いてしまうんじゃないかと、恐怖に打ち震えている。
「怖くない……!」
 心にもない言葉で自分自身を無理やり奮い立たせ、足元にある緑の影へと手を伸ばした。
 引き抜き、振りかざし、エネルギーを高めていく。三つ又に分かれた剣の先端に、雷の力が集まり火花を散らした。
「なんだこいつは!?」
 正面の男が驚きの声を上げた。でも、一度銃を撃ったそいつには格闘以外の攻撃手段がない。後ろの連中も、正面の男が射線をふさいでいるからすぐには発砲できない。
 火花のほとばしる剣先を地面へと叩きつける。雷の力が弾け飛び、光の洪水となって周囲の帝国兵らを呑み込んだ。
 オルネラと対峙した際にも使った閃光弾の一撃。大抵の人間なら、これで動きを止められる。
 すかさず男たちの脇を駆け抜け、家の敷地を飛び出した。大通りまで逃げれば、連中も派手には動けないはず。
 門をくぐる直前、男たちに捕らえられた虹眼の少女と目が合った。「なにをためらう必要があるのか――」と、そんな風にこちらを責めているかのような目つきだった。
 男たちを電撃で仕留めなかった。そのことを、彼女は不服に思っているようだ。でも、こっちにだって都合がある。
 もう人は殺したくない。たとえその人が異形の怪物に成り果てていたとしても。
 ――走り出してすぐに追っ手が走ってくる気配を感じた。それも複数……。閃光弾を放ったとき、うまく陰に隠れていた奴がいるらしい。
 緑の魔剣を使おうにも、走りながらじゃ上手く力を集中させられない。腰のナイフを抜き放ち、肩越しに後ろへ投げつけた。背後で「うっ」とうめき声がして、追ってくる足音が一つになった。
 あと一人――。不意を突いてひるませられれば振り切れる。
 そのとき突然、背後の足音が鳴り止んだ。
 まさか諦めた――?
 怪訝に思った次の瞬間、銃声が鳴り響いた。
「ぅあぐっ!」
 鋭い痛みが足を焼き、思わず転んでしまいそうになる。
 銃弾そのものが命中したわけじゃなかった。弾はふくらはぎの横をわずかにかすめただけ。でも、驚いた拍子に足首をひねってしまった。
 痛む足をかばいながら走る。せめて身を隠せる場所まで逃げられれば……。
 曲がり角を右折しようとした瞬間、目の前に人影が立ちはだかった。驚きのあまり、さっき投げ捨てたナイフを手で探ってしまう。
 でも、ナイフを探す必要はなかった。そこに立っていたのは、あたしのよく知る人――だったから。この街で一番大切な人だったから。
「ディノ!?」
 どうしてディノがここに――!?
「――クレール! 危ない!」
 考える間もなく、ディノに突き飛ばされた。直後に高い発砲音が鳴り響き、ディノの体が小さく跳ねた。
 表情を引きつらせ、倒れていく――――ディノの体。
 仰向けの姿勢で地面に崩れ落ち、ディノは固く両目を閉じた。 
「ディノ!」
 ディノは苦しげにうめきながら、胸を手で押さえていた。その指の隙間から、鮮血がとめどなくあふれてくる。
 ――血。
 押さえても噴き出してくる大量の血――。
 屈み込んでディノの体に触れた。ぬるりと湿った感触に鳥肌が立つ。その生暖かさを感じた瞬間、あたしの中でなにかが壊れた。
「うっ――――うあああああっ!」
 ――叫んだ。
 叫びながら緑の魔剣を手に取り、雷の力を限界まで振り絞った。
 剣先から放たれた雷撃がうねり、荒れ狂い、周囲を滅茶苦茶に焼き払っていく。
 やってきた帝国兵たちは皆、電撃に撃たれその場に倒れ込んだ。多分まだ生きているだろうけど、確証はない。そんなことに構っていられるだけの余裕はなかったから。
 ――撃たれた。
 ディノが撃たれた。
 ――なぜ。どうして。
 気が動転して、なにをどうすればいいのかわからない。そもそも、処置の施しようがあるのかどうかすらも判断できない。
 弾丸はディノの心臓部を正確に貫いている。彼の体から流れ出た大量の血液が、地面にまで広がっていた。
 助かる見込みはないと、すぐにわかるほどの出血。
 それを目の当たりにしてもまだ……まだ、あたしは……。
 ――涙の粒が落ちた。一滴……二滴……。
 やがてそれは頬を伝い、首筋へと流れていった。
 どうしよう。止まらない。瞳の奥から溢れてくるものを抑えられない。
 あたしは泣き叫んだ。わめきながら、何度も彼の名を呼んだ。
 もう決して目覚めることのない、彼の名前を――。



 霧が晴れた石造りの都は、早くも元の活気を取り戻し始めているようだった。行き交う人たちの表情は、みんなどこかほっとしているように見える。霧のせいで漂っていた閉塞感から、やっと解放されたからだろう。
 そんな中、大衆酒場の前で木箱を運ぶローリーだけが、なにやら難しい表情をしていた。いつも口ずさんでいた『あの歌』も、今日は歌っていない。ディノの不幸を敏感に察知しているんだろうか。ことローリーに限っては、あり得ないとは言いきれない。
 この場所へやってきたのは、ローリーに力を借りるため。悔しいけど、今のあたしではディノの遺体を運ぶこともできない。こんなときばかり頼りたくはないけど……。
 あの場所には、帝国兵たちもうろついている。下手に近寄れば、口封じに殺されてしまう恐れがある。でも、公爵家とつながりのあるローリーなら上手く取り成してくれるかもしれない。
 ――あの連中……一応軍服を着ていたけど、虹眼の少女を狙っていたことから考えて、きっとどこかの貴族に金で雇われたんだろう。
 魔剣の力は強大だ。その存在を知れ渡ったなら、手に入れようとする人が現れてもおかしくない。
「ローリー」
 ローリーに声をかけた。振り返ったローリーは一瞬笑顔になりかけたけれど、その顔がすぐ驚きの表情に変わった。
「クレール……? どうしたの。目、赤いよ」
 まさかこいつに心配される日が来るとは思わなかった。今、あたしはよっぽどひどい顔をしているに違いない。
「落ち着いて、聞いてほしいの」
「うん」
 ――深呼吸した。それを口にするのが怖かったから。
「ディノが……死んだ……」
「ディノが死んだ……って?」
 ローリーはきょとんとした目で首を傾げた。その表情は、あまり驚いていないように見える。
 ――どうして? こいつは誰よりも強くディノに依存していた。ディノが死んだなんて話を聞けば、平静じゃいられないはず。
 別にローリーの慌てふためく顔が見たかったわけじゃない。でも……なにかおかしい……。
「ローリー……。なんであんたそんな平気そうな顔してんのよ……」
「いや、だって……」
 ローリーがあたしの背後を指した。
 体中の産毛が逆立つような悪寒を覚えて、あたしは振り返った。ローリーが示したその先にあるものを見て、心臓が凍りつきそうになる。
 幽鬼のような気配を全身にまとい、ゆらりゆらりと近づいてくる不吉の影――。
 厚手のコートを揺らしながら歩くその隻影は、紛れもなくディノだ。
 生気をなくしたその様相は、いつか見た彼のイメージとぴったり重なる。出会ったばかりの頃のディノと――。
「ディノ……!?」
 ――嘘だ。
 彼は確かに死んでいた。それはしっかり確認してる。
 じゃあ蘇生した? あんな大怪我を負っていたのに?
 まさかよく似た別の人? そんなのもっとあり得ない。
 …………本当は、答えなんかとっくにわかってる。考えないようにしていただけ。
 じわり……と。ディノのコートに黒いシミが浮かび上がった。
 混じり気のない黒。光を照り返さない暗黒がじわじわと広がり、ディノの右半身を覆っていく。
 肌も――髪も――爪も――瞳も――靴も――。正常な左半分を残し、全てが黒く塗り潰されていく。
 それは死を拒絶する絶望の病。
 ――異形成腫活化病。
 見たくなかった。今だって、できることなら顔を背けたい。でも、それは許されない。
 緑の魔剣をつかみ取る。この手で彼を葬るために。
 これはきっとあたしの役目なんだ。不死の化け物として生き続けるよりは人として死にたいと、そう思ったからこそディノはあたしの前までやって来たはず。
 やるしかない。
 ディノのために。
 どんなに辛くても。心が悲鳴を上げていても。
 正面から受け止める。それが彼に対しての敬意だと思うから。
 周りを歩いていた人たちが、ディノの異変に気づいて悲鳴を上げた。みんな競うようにディノから離れていき、ものの数十秒で辺りから人の気配が消えた。
 ――好都合。余計な邪魔が入らずに済む。
 緑の魔剣は市街戦に適さない。当てたくない相手にまで、攻撃が飛んでいってしまうから。でも人がいなければ思う存分暴れられる。
「ディノ……! ごめんなさい……!」
 魔剣の先端から放たれた雷が、空気を切り裂きディノめがけて走っていく。
 ――ディノが動く。闇に染まった右手を前に。でも、そんなもので魔剣の雷を防げはしない。避けられない限り見放された者は確実に死ぬ。
 稲光が視界を白く染め上げ、伸ばされたディノの腕に命中する。見放された者を死に至らしめる必殺の雷撃が当たった――そのはずなのに――。
 ――思わず目を見張った。ディノがまだその場に立っていたから。黒い右手を突き出した姿勢のまま、無感情な瞳でこちらを見つめている。
 雷を……受け流された――?
 なにが起きたのか全く理解できない。この緑の魔剣で攻撃された『見離された者』は、みんな絶命するはずじゃ……。
 ディノが右手を下ろし、何事もなかったかのようにゆらりゆらりと近づいてくる。
 歩調は限りなく遅い。右へ左へコートを揺らして、ゆっくり……ゆっくりと歩み寄ってくる。その遅さが、かえって不気味だった。
「クレール。逃げよう」
 後ろでローリーが言った。そういえば、忘れていたけどこいつがいたんだった。
 ――ディノが歩調を速める気配はない。そのことを確認してから、あたしはローリーに向き直った。
 ローリーは目を細め、変異したディノの姿をじっと見つめていた。
 もっと取り乱すかと思ってたけど、意外に冷静だ。まるでこの状況を予期していたかのような……。そんなはずはないんだけど。
「冗談でしょ。あたしが逃げたら、誰がディノを止めるっていうの」
 言ってから、胸の奥がチクリと痛んだ。
 元はといえば、あたしがディノと向き合わず、逃げようとしたから今の状況を招いてしまったのに……。
「ディノのことじゃない。この街から、一刻も早く逃げた方がいいって言ってるのさ」
「……どういう意味?」
「霧が消えると、帝都は見放された者たちであふれかえる。そして……最後の見放された者が現れて、みんな死ぬ」
 淡々とした口調でローリーが言った。ディノから視線を外していないのに、どこか遠くを見つめているみたいだった。
「なにそれ。予言?」
「僕にもわからない。……ううん。『覚えてない』のが近いかな。けど多分、実現する」
 ――どうしてしまったんだろう。
 こいつがおかしいのは元からだけど、今日は普段より一段と言動が危うい。ディノの変異を目の当たりにして、見かけ以上に動揺しているんだろう。
 でも……それだけじゃないような気もする。ローリーの言葉に、鬼気迫るものを感じる。こんなことを思うあたしも、どうかしてしまったのかもしれない……。
「ディノの妹さんを街の外まで連れて行ってあげなよ。その方がディノも喜ぶと思う」
 こちらに向き直ってローリーが言った。
 ……どうしよう……か。
 緑の魔剣が通じない以上、一旦退くという選択はもっともだと思う。でも、逃げたからといってなにが解決するわけでもない。
 それにローリーは……。さっきの言い方からすると、あたしと一緒に逃げる気はなさそうだった。嫌な予感がする。
「アンタはどうすんの」
「僕は……」
 ローリーはゆったりとした動作でディノに視線を移した。悲しむでもない。怯えるでもない。頑なな意志を表明する眼差し――。
 痛いくらいにわかった。ローリーはここで死ぬつもりなんだ。ディノの後を追って――。
 ディノとローリーはただの友達同士だって聞いていたけど、どうしてそこまでのことができるんだろう。あたしの方が、ディノと一緒に過ごした時間は長いはずなのに……。
「駄目よ。アンタにもしものことがあったら、それこそディノが悲しむでしょ」
 ローリーの腕をつかんで強く引いた。ローリーは少し驚いたような顔を見せたけれど、すぐにいつもの微笑みを見せて体裁取り繕った
「……そうだね。じゃあ、程々のところで僕も街を出て行くことにするよ」
 緊張感のないその笑顔に毒気を抜かれ、思わず彼の腕を放してしまう。
 ローリーは軽く服を整え、ディノの動きに目を光らせつつ何度かうなずいた。
「ディノの家で少し待ってて。僕もすぐに行く。これからのことを相談しないとね」
 もう一度ローリーが笑った。その笑顔は……悔しい気持ちを噛み殺しているような表情に見えた。
 ――なぜ。そんな顔をするんだろう。
 あたしはこいつになにか変なことを言ってしまったんだろうか。それとも……。
 いずれにしても一つ確実に言えるのは、ローリーがディノを裏切るわけがないということ。二人の過去になにがあったかは知らないけど、こいつは異常なくらいにディノを慕っている。『ディノのために行動する』というその一点においては信頼できる……と思う。
「すぐに来なさいよ」
 そう言い残して、あたしはその場を離れた。ディノのことをなんとかしてあげたいけど、緑の魔剣は通じないし、殺されてあげるわけにもいかない。
 悔しいけど……悲しいけど、逃げ出すことしかできない。自分の無力さを今日ほど呪うことは、これから先ずっとないだろう。
「うん。すぐに行くよ。すぐにね……」
 背中でローリーがつぶやいた。決意に満ちた――それでいて寂しそうな、そんな声に聞こえた。





 

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~クレール・ラナ~

「話を聞かせて」
 腰のナイフから手を放して、虹眼の少女に言った。
 少女も黄金色の魔剣を手放し、警戒態勢を解いた。固い表情は崩さないままだけど、瞳に宿る光はどこか優しさを取り戻している。
 そう。彼女だって、帝都の破滅を望んでいるわけじゃない。破壊するだけが望みなら、面倒なことをしなくてもいい。魔剣の力で全てを蹂躙すれば、それで事足りるのだから――。
 虹眼の少女を信用し、歩み寄ろうとした。そのとき――。
 不意の破裂音が思考を奪っていった。体がびくんと跳ね、胸の奥から激痛が湧き上がってくる。
 胸が――痛い。
 痛い。
 痛い。
 服から大量の血が染み出してきて、ボタボタと地面に垂れ落ちていく。
 これは……銃創……?
 あたし……撃たれたんだ……。
 がくんとひざが折れ曲がり、前のめりに倒れ込んだ。受身も取れず頭から地面にぶつかったけど、それどころじゃない。
 体が寒い。この寒さには覚えがある。ディノと初めて出会う直前……道端で倒れ、絶命しかけていたときの寒さ……だ。
 ああ……どうして……気づけなかったんだろう。
 ディノの友人を殺してしまった時点で、もう退路も行き場も残されていなかったということに。
 これはきっと運命だ。
 運命が、どこへも行けないあたしの命を奪いに来た。
「ディ……ノ……」
 暗転する視界。意識を溶かす闇の中で、彼の名を呼ぶ。
 裏切られ、切り捨てられ、誰からも見放されて……。もう誰にも頼らない――と。そう誓ったのは何年前のことだったろう。
 そのあたしが、人と会えないことをこんなにも未練に思うなんて……。
「ディノ……」
 もう一度、彼の名前を口にする。その名を呼べば、幸せだったあの頃に戻れるような気がした――。


BAD END
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~ロランベル・アルジェント~

 ――目が覚めると、そこはベッドの上だった。
 体を起こし、周囲に視線を巡らせる。見慣れた部屋……だった。僕の寝室だ。でも、どこか違和感があるような……。
 そういえば、どうして僕はここにいるんだろう。確か帝都に大きな見放された者が現れてそれで……。
 目覚める前のことを思い出し、身震いした。僕は――そう、死んだはずだった。
 あれは夢だったんだろうか。夢というには生々しすぎるような気もしたけど……。
 現れた巨大な見放された者――。
 崩れてゆく石造りの都――。
 そして――――僕を庇ってディノが死んだ。
 僕は彼にあんなひどいことを言ってしまったのに……。あんなにひどい言葉で罵った僕を、ディノは最期まで助けようとしてくれた。
 夢の中では結局僕も死んでしまったけど、いい夢だったかもしれない。そして、悲しい夢――だった。
「僕は……」
 夢の中でディノが死ぬよりずっと前――。ディノを傷つけたときの情景が思い浮かんだ。
 あの日僕は、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。家族が亡くなったことを、バチが当たっただなんて……あんなひどいことを……。
「どうして……あんな……」
 胸の奥が締めつけられる。
 後悔しても、後悔しても、後から罪の意識が無秩序に湧き上がってくる。
 言わなければよかった。一時の激情に身を任せて、あんなひどい言葉を――。
「――ええ。まだ目は覚まさないけど、峠は越えたってお医者様が……」
 部屋の外から話し声が聞こえてきた。お義母さんが誰かと話しているらしい。その声が段々と近づいてきて――。
 ノックもなく扉が開けられた。入ってきたお義母さんは、僕を見て「ああっ」と声を上げた。
「ローリー! 目が覚めたのね!」
 お義母さんが駆け寄ってきて、僕を抱き締める。でも、僕の心はそこにない。
 お義母さんの次に部屋へと入ってきた男の人……。僕の視線は彼に釘付けられていたから。
 赤茶色のコートを羽織った、物静かな雰囲気の青年――。切れ長の瞳でじっとこちらを見据え、足早に近づいてくる。
 ディノ――!
 言葉より先に涙があふれてきた。
 もう会えないかと思った。会いに来てくれるはずがないと思った。それなのに――。
 ――止まらない。
 ――止まらない。
 まぶたをぎゅっと押さえつけても。
「今までごめん……! ごめんねディノ……!」
 お義母さんを押し退けてディノの前に立ち、泣きながら何度も謝った。こんなことで許されるはずがないとわかっていても、謝らずにはいられなかった。
「謝るのは僕の方だ。君の支えになれなかった」
 ディノは苦渋をにじませた表情で言った。
 やっぱり。どんなときでもディノは優しい。僕を恨むどころか、こんなに心配してくれていたなんて……。
「でも僕……ディノにひどいこと言っちゃったのに……」
「ひどいこと……って?」
「え……?」
 ディノは不思議そうに僕を見つめていた。


 その後、驚くべきことがわかった。
 ――僕がディノを蔑み続けた3年間は、なかったことになっていた。3年の月日は経過しておらず、僕が劇薬を飲んだあの日からまだ数日しか経っていなかった。一応ディノには謝ってみたけど、「夢でも見たんだろう」と片付けられてしまった。
 失われた3年間――。そのときの記憶は、まだ鮮明に残っている。あれは本当に夢だったんだろうか……。
 いろいろ考えた挙句、神様がやり直すチャンスをくれたんだと思うことにした。
 僕はもう二度とディノを傷つけたりしない。彼が僕を守ってくれたように、僕も彼を守るために生きていく。そう心に誓った。


 そのとき僕はまだ気づいていなかった。あの悲劇が、紛れもなく通過してきた現実だったということに。
 そして、本当の苦難はここから始まるということに――。
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