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A・離れる

「駄目だよ」
 巻かれた腕をそっと引き剥がす。ほとんど力を込めていないのに、思いのほかあっさりと姉さんは離れてくれた。
「あーあ。……駄目か」
 少しだけ残念そうに、でもどこかすっきりした口調で、姉さんがつぶやく。僕は安心した。こういうしゃべり方のが、姉さんらしくていい。
「じゃあ、代わりにグチ聞いて」
「わかった。徹夜で付き合うよ」
「あ、こっち見なくていいの。ほら、あっち向く」
 衣擦れの音。服を着直しているのだとわかった。
 オイルランプに灯りがつけられ、部屋の中が少し明るくなる。姉さんはランタンを枕元の机に置き、ベッドの上へ腰かけた。
「ディノも座りなさい。……そんなに怯えなくてもいいじゃない。もう変なことしないから。ほら早く」
 姉さんの隣に腰を下ろす。子供の頃、今みたいに無理やり話を聞かされたことがあったな……などと思いながら。
「……あたしが今までどうしてたか、知りたい?」
 昔とは違う、姉さんの静かな声色。これから聞かされるのは、深刻な愚痴のようだ。
「――あたし、彼氏がいてね。三年前起こった事件の後、その人と一緒に隣町で暮らし始めたの」
 僕の返事を待たず、姉さんは語り始めた。顔には自嘲気味の笑み。それを見ただけでも、姉さんの後悔が伝わってくる。
「故郷の町で、姉さんは行方不明だって聞かされた。それはどうしてかな」
「人には言えないよ。彼、カタギじゃなかったから。ほかに頼れる人もいないって、そのときは思い込んじゃってて、事件を機に二人で身を隠すことにしたの」
「この街へ来たのは?」
「彼、ちょっと困った人でね、しょっちゅう暴力振るわれたりした。頑張って耐えてたんだけど、結局怖くなって逃げてきたの。で、そのときディノのこと思い出して……」
 ふうっとため息をつくロミーナ姉さん。もう笑ってはいなかった。自らを哀れんでいるかのような瞳で、床の一点を見続けている。
「最初に街へ来たときね、ローリー君の歌を聴いたの。綺麗な声だったから、ふらふらーって感じで追いかけちゃって。そしたら、あの店の前で目が合っちゃってね、彼、なんかびっくりした顔してた。きっと、あたしの顔がディノに似てたからだと思う」
「ローリーが驚いたのは、姉さんが好みのタイプだったからだよ。一目ぼれしたって言っていたし」
「んー……どうだろうね。あたしは、そうじゃないって思う。割と確信。女の勘ってやつ? 彼は確かにあたしを見てるけど、あたし自身を見てるわけじゃないんだ」
「……そうなのかい?」
「あの子はね、あたしを通してディノを見てるんだよ。多分、ディノを知らなかったら、あたしになんか関心を示さなかったと思う。そんな気がするの」
 自信たっぷりな姉さんの語りには、妙な説得力があった。
 僕を見てる……か。
 なぜだろう。理由はわからない。
「……とにかく、そんな経緯でウエイトレスを始めたってわけ。ディノのことは落ち着いてからゆっくり捜そうって考えてたけど、就業一日目で逢えるなんてね。なんか運命感じちゃったな」
 姉さんが、僕の肩に頬を乗せる。しなだれかかるその人を、今度は払いのけようと思わなかった。
「三年間……。すっごく長かったな。すぐ会いに来ればよかった。そうしてたら、もっと……」
 肩口に、じわりと熱いものが染み込んでいった。……涙だった。
「ずっと……苦しかった。優しくしてくれる人なんか誰もいなくて……。寂しかった……。寂しかったよ、ディノ……!」
「姉さん」
 次第に嗚咽を漏らし始め、子供のように姉さんは泣きじゃくった。

 ――強い女性だと思っていた。
 きっとこの人は、大人になっても自分を見失わず、颯爽と生き続けるのだろうと、小さいころの僕はそう考えていた。
 そんな姉が。
 ロミーナ姉さんが。
 こんなにも傷ついて。
 こんなにも疲れ果てて。
 力なく、僕の肩に寄りかかっている。
 決して口には出さないけれど。僕はそんな姉さんを、心の底から愛しいと思った。
 この人が幸せを手に入れるまでは、ずっと傍で支え続けていこう。
 ずっと……。



 代書屋の仕事。文書の作成。それはいつでもできる。問題なのは官公署が開いている時間だ。夕方頃には閉められてしまうので、その少し前までに書類を届ける必要がある。一日の予定で、その時間だけが変えられない。
 生活サイクルが夕方中心になっている代書屋にとって、朝は苦痛だ。
 しかし、今日に限っては気分良く起床することができた。
 よく寝た、という実感がある。両親と死別して以来、あるいはその少し前から、これほど気持ちよく眠れたことはなかった。仕事場にある来客用の長イスで休んだというのに、不思議なものだ。
 自室の中を覗き込んでみると、普段は僕が使うベッドの上で、ロミーナ姉さんは猫のように丸くなっていた。同居人が帰ってきたときのため、そこを使ってもらったのだ。
 幸せそうな寝顔を見ていると、起こすのは悪いような気がしてくる。音を立てないようにそっと扉を閉めた。
 買い物に出ようと思い立ち、二枚の書置きを用意する。一つは姉さん用。もう一つは同居人用。もし僕がいない間に二人が鉢合わせたら、姉さんが不審者だと思われるかもしれない。まさかいきなり暴力沙汰になったりはしないだろうけれど、用心のために。
 玄関を出るとき、「おや?」と思った。出入り口の鍵が開いていたからだ。何年ぶりだろう。戸締りを忘れてしまうなんて。
 ――いや、そうだったろうか。寝る前に戸締りを確認したような記憶がある。
 不安に駆られた僕は、念のために全ての部屋を見回った。けれど、同居人の彼女が帰ってきた形跡はなく、なにかが盗まれているということもなかった。やはり鍵をかけ忘れたということなのだろう。

 戸締りをしっかりと確認し、繁華街へ向かう。帝都アムルパーレの朝は賑やかだ。行き交う人々。行き交う荷馬車
 ――と。大通りの一角に、人だかりができていた。家から近い場所だったこともあり、少し気になった。人ごみを掻き分け、そこへ近づいてゆく。
 二人ほど帝国兵の姿が見えた。黒い縦長の帽子……ケピ帽に、赤白緑の三色を基調とした簡素な軍服。工場での量産品が普及し始めているようだ。少し前までは、皆オーダーメイドの洒落た軍服を着ていた。
「見世物じゃねぇぞ。散った散った」
 人だかりを追い払おうとする長躯の兵士。赤茶色の髪と肉食獣を思わせる鋭い目つきの彼には見覚えがあった。
「……ん。お前、ディノか?」
 兵士はこちらを見て一瞬驚き、それから少しだけ笑った。
 ――エルメル。大学時代の友人だ。貴族階級でありながら、気取らない性格で女好き――だった。昔はよく、一緒に馬鹿話をして盛り上がったものだ。
 似合わないことに、彼はネックレスを着けていた。両刃の剣を模した小さなペンダントにチェーンが付けられ、それを首から提げている。剣型のペンダントは青く透き通っていた。宝石かなにかを加工した品だろうか。
「久しぶり。どうだい? 調子は」
「おお。悪かねぇよ。そっちはどうだ?」
「まあまあだよ。君と違って、栄誉や名声とは縁遠いけどね」
「お前が代書屋か。なんか似合わねぇな。俺、ディノは数学者になると思ってたのに」
 彼がそう思うのも無理はない。大学にいた頃、僕のもっとも得意な教科は数学だった。それだけは誰にも負けなかったけれど、逆に法学などは苦手な分野だった。
「学問の探求には興味がないよ。ところで、この騒ぎは?」
「……死体だ」
 押し殺した声で彼は言った。
「死んだのは見回りをしてた提灯持ちらしい。ランタンの火が服に燃え移ったんじゃないかっていう話だ」
 僕はエルメルの横から、人だかりの中心を覗いた。もう一人の帝国兵が立つその正面。なにか……ある。
 真っ黒に炭化し、もはや原型をとどめていないそれは、予備知識なく一見しただけでは人間だとわからなかっただろう。思わず、僕は目を逸らした。
「服が燃えたくらいで、あんなになるものなのかな」
「さあな。そういうこともあるんじゃねぇか。なにか別の原因で倒れた後、時間をかけて燃え続けたのかもしれねぇ。悲鳴を聞いたって奴がいねぇからな。焼身ってのは滅茶苦茶痛いんだ。それでなくても、意識があったら誰かに助けを求めるだろう。ランタン片手に街を徘徊してたのは、こいつだけじゃねぇんだしな」
 話しながら、エルメルは唇を何度か舐めた。
 彼の癖。嘘をつくときや隠し事をしているとき、昔からよくエルメルは唇を舐めていた。
 ――なにを隠している?
 そもそも、保安警察ではなく軍の関係者が来ているというのもおかしい。異形成腫活化病が絡んでいるなら話は別だが。
「いずれにせよ、だ。一般人があんまり見るモンじゃねぇ。もう帰りな」
「最後に一つ教えてくれないか。本当はなにが原因だと、君は思ってる?」
「……良くねぇものが、良くねぇことをしてる。俺の考えは、そんなとこだな」
 やや芝居がかった口調で彼は言った。唇は舐めなかった。
「事故じゃないと?」
「さぁな。仕事があるから話はここまでだ。とにかく気をつけろよ。深夜に出歩くな。他人に関わるな。歌声が聞こえたら即行逃げろ。いいな?」
 いくつかの警告をして、エルメルは僕に背を向けた。……最後のは冗談だと思うけれど。

 ――歌。
 大衆酒場で働くあの美しい青年のものではない。それは都市に伝わる伝説だ。
 始まりは十数年前。七十歳まで生きたある男が、老衰で亡くなる寸前こうつぶやいたのだ。
『歌が聞こえる』と。
 次に病気で亡くなった老婆も同じことを言った。その次に事故死した若い男も同じことを言った。やがて皆が同じことを言うようになった。
 死の間際、人は聞いてしまうのだという。もだえる、狂った、女の歌声を。
 まあ、なんのことはない。ただの幻聴だ。よくある臨死体験。枕元にたたずむ死神だとか、亡くなった家族が迎えに来ただとか、その形態の一つに過ぎない。
 歌を聴いてしまった者は死ぬ。
 かつてそれを信じた男が、自分の耳を潰してしまったなどという噂もある。それでも彼は死ぬ直前、歌声を聞いたというのだから不思議な話だ。
 いや、不思議なことなどなにもない……か。幻聴なのだ。鼓膜がない人にだって聞こえてしまうことくらいある。

 エルメルと別れてしばらく歩いていくと、聞き慣れた歌声が響いてきた。……ローリーだ。
 服装はいつもと同じ、白と黒のウエイター服。シンプルなデザインで、飾りと呼べるものは胸元の蝶ネクタイだけ。彼は仕事のない時間帯でもなぜかそれを愛用している。
 こちらが片手を上げて挨拶すると、向こうもにっこり笑って片手を上げた。
「やあ、セバスティアーノ君」
「違うよローリー。僕はセバスティアーノじゃない」
「じゃあ誰なのさ」
「ディノ」
 ――誰かが答えた。僕の背後で。振り返ると、そこにはロミーナ姉さんの姿があった。
「姉さん。もう起きてきたんだ。もっとゆっくり休めばいいのに」
「いいんだって。お昼になったら夕方までまた寝るから」
「酒場の準備は? ローリー一人に任せてたら、かわいそうだ」
 ローリーに視線を向けた。彼は眉をひそめながら僕を凝視し、なにやらつぶやいていた。
「ディ……ノ……。ディノ……」
 そんな彼の様子を、姉さんはキョトンとした様子で見守っていた。きっと僕も、似たような顔をしていただろう。
「ディノ!」
 突然ローリーの表情が明るくなり、彼は僕の名を呼んだ。僕と姉さんはびくっと肩を震わせ、同時に身構えた。
「そうだディノだ! どうして思い出せなかったんだろう! ああっ良かった。思い出せて……」
 ――そうか。劇薬で脳がやられた直後、彼は僕の名前を忘れてしまっていたけれど、もうとっくに薬の効果は抜けていたんだ。ロミーナ姉さんの名前を彼が口にした時点で気づくべきだった。
 そういえば、どうせ覚えてもらえないと思い、久しく名乗っていなかった気がする。もっと早くに言えばよかったのか。
「なんで忘れてたの?」
 姉さんのなにげない一言に、一瞬空気が凍りつく。
 ローリーの過去。劇薬の件。あらかじめ話しておくべきだったかもしれない。
 彼の顔を、横目でそっと盗み見る。ローリーは……普段と変わらない様子で微笑んでいた。
「見放されてるから……かもね」
 それだけ言うと、ローリーはまたあの歌を口ずさみながら歩いていった。
「見放され……? なにが言いたかったんだろ」
 ロミーナ姉さんは首をかしげている。アムルパーレに来てまだ日が浅いから知らないのだろう。
「『見放された者』。そういう言葉が、帝都にはあるんだ」
「どういう風に使うの?」
「それは……」
 口ごもり、ローリーの顔を思い出す。彼は大丈夫……のはずだ。数年間、彼との付き合いはずっと続いていたけれど、それの兆候は見られなかった。見放されてなどいない。きっと。
「うるさい!」
 突然、姉さんが声を荒げた。
 僕はなにも話していなかったというのに。
 血走った目で、姉さんはあらぬ方を見ていた。視線の先を追ってみるが、そこにはレンガの壁があるだけだ。
「姉さん……?」
「あ……」
 ロミーナ姉さんの顔が落ち着きを取り戻す。
「あ、ああ。ごめん……。今のはディノに言ったんじゃなくて……」
 しどろもどろになって姉さんが弁明しようとする。しかし、良い言い訳が思いつかなかったのか、そのまま黙り込んでしまう。
「寝不足がひどいみたいだね。帰って少し休んだ方がいい」
 僕の提案に、姉さんはおとなしくうなずいた。
「時間、ないのかな……」
 小さな声でなにかをつぶやく姉さんの姿は、今にも消えてしまいそうに見えた。



 静かな夜だった。ランプの灯りで手元を照らし、僕は請け負った書類を作成していた。
 今、僕の寝室にはロミーナ姉さんがいる。大衆酒場の隣より、こちらの方が気に入ったのだと話していた。
 真夜中に姉さんが訪ねてきたときは驚いた。見回りがいるとはいえ、深夜に女性が一人で歩いてきたのだ。無用心にもほどがある。あんな事件があった直後だというのに。
 ――最後の書類が完成した。僕は大きく体を伸ばし、イスから立ち上がった。
 そのとき、奥の部屋から青い寝巻き姿の姉さんがやってきた。思わぬ来訪に小さく心臓が跳ねる。
「姉さん。どうしたんだい? こんな時間に起きてくるなんて」
「…………」
 ――違和感があった。
 姉さんは焦点の合わない目で遠くを見つめ、フラフラと玄関扉へ向かって歩いていく。
「姉さん!」
「え……あ……」
 僕が大声を出すと、姉さんは立ち止まってこちらを見た。
 寝ぼけていたのだろうか。それとも夢遊病? 少なくとも六年前まで、姉さんは夜中に出歩いたりするような人ではなかったはずだ。
「どうしたの? 姉さんが寝つき悪いなんて、珍しいじゃないか」
「ご、ごめん……なんか……体熱くて……」
 ……熱い? 最近の気候は割と涼しい方だ。僕だって外ではコートを着用している。ベッドの上で毛布を被っていたとはいえ、寝苦しいほどではないはず。
「大丈夫? 病気とかじゃ……」
「ううん。そ、そういうんじゃないの……た、ただ……」
 ――様子がおかしい。こんなにどもる姉さんを、僕は今まで見たことがない。相当調子が悪いのではないだろうか。
「わかった姉さん。少し休もう。明日の朝になったら、すぐ医者を呼んでくる」
「だ、だ、大丈夫だって。ちょっと外で冷やしてく、くれば……」
「昨日の夜、見回りの人が襲われる事件が起きてる。危ないかもしれないから出ちゃ駄目だ」
「あ、あたしは心配ない……よ。……だ、だ、だってあれは……」
 姉さんは軽く頭を振った。パリ……という乾いた音が聞こえたような気がした。
「う……ん。よし。馴染んできた馴染んできた」
 腕を回し、大きく深呼吸する姉さん。蒸し風呂に入ったときのような強い熱気が顔に当たった。
「姉さん。とにかく、一度ベッドに戻って――」
 寝室へ押し返そうと、姉さんの肩に触れる。その瞬間――!
「つっ!?」
 ――手に激痛。なにが起こったのか理解できず、僕は自分の両手の平を見た。
 怪我はない。けれど、思い切りつねったときのような疼きがある。火傷の痛みに近い。
「ねえ、ディノ……。あたし、本当に平気だから」
 姉さんが僕をにらみつける。瞳に宿るのは、狂気を孕んだ闇。
 ――怖い。
 まだ実家で暮らしていた頃、僕がどんなに怒らせたとしても、姉さんはこんな顔を見せたりしなかった。
「どうしたのディノ。震えてるよ」
 僕の肩へと手が伸ばされた。反射的にそれを避ける。しかし完全にはかわしきれず、姉さんの指先が服の端をつまんだ。
 ――煙が上がった。室内に広がる焦げ臭い匂い。大きく体をのけぞらせ、強引に引き剥がす。つかまれた箇所は、真っ黒に焼け焦げていた。
 ――なんだ? なにが起こった!?
 必死に頭を回転させる。答えは出ない。わからない。
「やだ。ディノ……。そんなに……逃げなくても……」
 伸ばされた姉さんの手。その指先から、乾いた音がした。
 音と同時に皮膚が割れた。割れ、乾き、めくれ上がり、その中から濁った灰色の新しい表皮が顔をのぞかせていた。
 まさか――これは――。
 官公署で出会った灰被りの男を思い出す。まさか、姉さんもそうなのか?
「あ……ああ……」
 ――目の前で、青い寝巻きが炎と黒煙に覆われた。
 灼熱を意に介さず、姉さんは僕の方へと歩み寄ってくる。
 どこか遠くで、女の歌が響いていた。

 ――『見放された者』。
 帝都で異形成腫活化病を発症した者はそう呼ばれる。それは変異した人間の通称であり、蔑称でもある。
 神に見放され、人に見放され、死すら彼らを見放した。だから呼ばれる。見放された者――と。
 そして今、目の前に立ち尽くす怪異。それはまさに――。

「――――!」
 悲鳴を上げたかもしれない。石造りの家を飛び出し、僕は走った。
 頭の中に響いてくる声がある。それは詩。狂った旋律。苦しみもだえるような女の歌声だ。
 耳を塞ぐ。それでも歌は止まらない。
 馬鹿な。馬鹿な。
 あまりの事態に、脳がパニックを起こす。
 聴いてしまった。死を招く声。
 もう逃げられない。どこにも逃げられない。歌声からは逃れられない。
「待って……ねえ待って……ディノ……」
 人のいない商店街を駆け抜ける。
 振り返ると目に映る異形の影。なにも見えていないかのように腕を振り回しながら、それでも正確に僕を追ってきている。あれが本当に姉さんなのか!?
 服は全て燃え尽き、肌も髪も全てが灰一色。メリハリの利いた身体の曲線から、女性であることは判別できるが、彼女が人間であるかどうかまでは、誰にもわからないだろう。
「――おい! どうした、アンタ!」
 不意に声をかけられ、一瞬立ち止まりかける。ランタンを手にした男の影が見えた。見回りの提灯持ちか。
 ――駄目だ。走れ。追いつかれるわけにはいかない。
「お、おい――」
 提灯持ちの脇を走り抜ける。不審者だと思われたかもしれないが、それどころじゃない。
 捕まれば、僕は確実に死ぬ。
 背後で男のうめき声が聞こえた。――まさか!? 姉さんは僕を追っていたはずだ。
 ――振り向いた。
 姉さんは、もう僕を見ていなかった。提灯持ちの首に手をかけ、ニタニタと嫌な笑みを浮かべている。ランタンがこぼれ落ち、地面に転がった。
「駄目だ! 姉さ――」
 ――炎が上がった。
 ロミーナ姉さんの手。二つの手がつかんでいた男の首から黒煙が噴き出し、その一瞬後のことだった。
 男の体が、高さ十フィートほどもある巨大な火柱に包まれる。オイルランプの小さな灯火とは比較にならない。街道が赤く照らされた。
 ――そんな。姉さんが人を……。
 いや。今のは僕のせいだ。彼が殺されたのは、僕が巻き込んだからだ。
 全身から力が抜けていく。僕はその場に立ちすくんだ。逃げ出す気力は、もうない。
 燃え盛る男の体が無造作に投げ捨てられる。
 ……わかった。昨日、街角で発見された焼死体。あれも姉さんが――。
「やっと……止まって……くれた……。嬉しい……よ、ディノ……」
 ゆっくりと姉さんが近づいてくる。近づくほどに、頭の中で響く声は大きくなってゆく。
 死ぬ間際に聞こえるといわれる女の歌声。ただの都市伝説だと思っていた。けれど今、僕の耳には、こんなにはっきりと……。
 姉さんが僕になにを求めているのかはわからない。殺したいのかもしれない。愛したいのかもしれない。あるいは、その両方。
 いずれにしても、ただ一つだけわかることがある。間もなく、僕は死ぬ。
「姉さん。……ごめん」
「……?」
「怖いんだ。……僕は今、姉さんのことが、たまらなく怖い」
「ディノ……あ、あたし……」
 ロミーナ姉さんの瞳が、ほんのわずかに正気の光を取り戻す。
「駄目……! このままじゃ、殺しちゃう……! そんなことしたら、もう誰もあたしを助けてくれない……!」
 姉さんは頭を抱えて振った。
 歌声はまだ響いている。僕は少しも動けなかった。
「嫌……! 嫌だよディノ! あたし、ディノが好き。好き。好きだよ……! でも、あたしはもうあたしじゃない!」
 異形成腫活化病。それに侵された、通称『見放された者』。彼らの大半は脳が変異し、まともな思考ができなくなるという。
「あたしは誰……? 怖い! 助けて! あたしがあたしじゃなくなっていく。あたしはもうどこにもいない! 助けて! ディノ! 助けて!」

 ――大学入学のため、僕が帝都へと向かう前の日。夕食後、両親との長い話を終えた僕は、ロミーナ姉さんの寝室へ向かった。姉さんと最後の話をするために。けれど、姉さんはただ一言「もう寝なさい」とつぶやいて、ベッドにもぐり込んでしまった。
 姉さんに「もう寝なさい」と追い返されたとき、僕は泣いた。あんなにも姉さんを恐がっていたはずなのに、寂しくて泣いた。悲しくて泣いた。
 僕は姉さんともっといろんなことを話したかった。そのときは、どうして姉さんがそっけない態度を取るのかわからなかった。だけど――。
 今ならわかる気がする。姉さんがどれほど僕を大事に思ってくれていたのか。あの夜きっと、姉さんは泣いていたんだと思う。
 ――今ならわかる。僕自身もまた、他の誰よりも姉さんを強く求めていたんだって。

 ――助けたい。
 意地悪だった姉。でも、僕を好きだと言った姉。この人が、これ以上苦しむ姿を見たくない。
 それなのに、僕にはどうすることもできなくて。ふがいない自分に怒りがこみ上げてくる。

「助けましょう」

 誰かが言った。どこかで聞いたことのある、ガラスを引っかいたような少女の声。
 悶える姉さんの向こう。二十フィートほど離れた場所にレンガ造りの家がある。
 その屋根の上に、彼女は立っていた。銀色の髪をなびかせて、虹色の瞳で僕を見据えている。
 夢の中で出会ったあの少女だ。もしかするとあれは現実だったのかもしれない。
「さあ、それを!」
 少女が指し示したのは僕の足元。そこに、それはあった。
 透き通った赤色の剣。鎌状に大きく湾曲した刀身。炎が照らす夜の街で、それは異様な存在感を放っていた。
 間違いない。前に酒場で彼女から渡された物だ。けれど、いつの間に? ついさっきまで影も形も見えなかったはず。
「早く!」
 虹目の少女が叫ぶ。
 そうだ。考えている余裕はない。この剣が姉さんを救ってくれるというのなら僕は……!
 剣の柄を握り締める。瞬間、目の前に火花が散り、意識が飛びそうになった。
 まばゆい閃光が視界を染め上げてゆく。
 気を失うわけにはいかない。ロミーナ姉さんを助けるために――!

 光が止んだ。同時に世界が姿を変えた。
 ――なにかが見える。先刻までは見えなかったもの。姉さんの周囲に浮かぶ無数の数式。
 その意味を、僕は正しく理解できた。
 ――わかる。読める。
 あの数式は、姉さんを構成する情報。その全て。
 身長、体重、年齢。それだけでなく、感情、身体能力、病気といった内面の情報も読み取れる。ただ半分以上の項目は、暗号化されていて解読できない。恐らく、記憶や時間に関する部分だろう。
「な……に……それ……。ディノ……。それ、どこから出したの……?」
 ロミーナ姉さんが後ずさりする。僕の手にあるものを恐れている。
「それであたしを殺すの……? や、やだよ、やめて……」
「大丈夫だよ。落ち着いて。今、助ける」
 ――見えていた。姉さんを取り巻く数式。その一部分が、本来在るべきものが、虫食いのように欠けてしまっている。
 式が変われば答えも変わってしまう。在るべき項目が欠けてしまったことで、全体に異常が発生している。その結果が今の姉さんだ。
 あの場所に、正しい式を書き込めば……。
 書き込めば……どうなる? 赤い剣が、あの場所に当てはめるべき式を導き出す。
 それは死を意味する数式。書き込めば、その瞬間に姉さんは絶命する。
 ――違う。僕の求める解はこれではない。
 再計算。……答えは変わらない。正しい式は『死』。
 見放された者たちは、決して死なないという。
 なぜ死なないのか。
 その答えがこれだというのか。
 今、姉さんに足りないのは『死』そのもの。だから死ねない。どんなことをしても。
 ――それなら。
 姉さんの体に異常が発生しているのは、死の要素が欠けているからだ。でも、この際それは無視する。現在異常が発生している項目だけを正常な数値に置き換える。
 原因は無視。結果だけを修正する。この剣なら、それができる……!
「ディノ……でぃ……の……お……オオ……!」
 救いを求めて、姉さんが前へと一歩踏み出す。これ以上正気を保っていられないのだろう。その表情は喜んでいるようでもあり、悲しんでいるようでもあった。
「アああァあアぁあアアあああああッッ!!」
 赤の魔剣が異常を検知する! ロミーナ姉さんを構成する情報、その一部分。『熱量』を表す項目が、ありえない数値を示している――!
 姉さんが僕の首へ手を伸ばす! つかまれれば、姉さんの異常体温が僕を焼き尽くすだろう。しかし、恐れはなかった。
 ――歌声はもう聞こえない。
 ――歌声はもう響かない。
 それを聴くのは死ぬ者だけだ。ならば僕も、まだ死ぬことはないのだろう。
 迷いはない。恐怖もない。万感を剣に込め……振るう!
 僕が姉さんを斬りつけるのと、姉さんが僕の首をつかむのと、ほぼ同時だった。
「あ……ああっ……」
 ロミーナ姉さんはがっくりと膝をついた。そのまま倒れてしまいそうになる細い体を、片腕で優しく抱きとめる。
 お互いに怪我はない。手にした赤の剣は、姉さんの体を傷つけず、数式だけを望んだ値へと書き換えた。灰色だった肌も、体温も、元通りになっている。

 ――終わった。
 安心した途端、疲れが襲ってきた。震える腕と脚。
「助かった……のか?」
 疑問を口にした。そのとき――!
「え……。まさか……」
 赤の魔剣が異常を検知していた。ロミーナ姉さんの体温が、再び上昇を始めている。
「そんな……駄目だ!」
 姉さんの腕に刃を当て、熱量の項目を正常な数値へと書き換える。けれど治まらない。いくらやっても、体温は急上昇しようとする。
「ディノ……」
 姉さんが口を開いた。その瞳に狂気はない。
「もういいよ……。ディノ。あたし、今度はちゃんと……受け入れるから……さ」
 ――受け入れる? なにを? 
「あたし、人を二人も死なせちゃった……。これ以上生きてたら、きっとまた、誰かを壊しちゃう……」
「大丈夫。そんなこと、僕がさせない」
 数式の修正を繰り返す。無駄だとわかっていても。
「あたし、死ぬべきだった。……ううん。死んでいたはずだった。あの日、彼氏に殴られたとき、階段から落ちて……」
「姉さん。違う。死にはしない。昔もこれからも」
「歌が……聞こえたの。でも、あたしは拒絶した。だから、死ねなかった……」
 ――考えろ。救う方法を。
 ――恋人から暴行を受けていたと、以前姉さんは話していた。そのときすでに、死んだはずだった?
 少なくとも数日前まで、姉さんはまともだった。帝都へ来る以前から変異が始まっていたならば、姉さんは『死』が欠けた状態でもしばらくの間、普通に生活を送ってこられたことになる。
 それなら、この赤い剣で時間に関する項目を修正すれば、姉さんが回復する可能性はある。
 ただし問題もある。姉さんを構成している情報の大半は、暗号化されていて読めないのだ。時間に関する項目は、恐らくその中にある。
 試しに赤い剣で年齢の値を下げてみたが、変化は見られない。二十……十五……十歳……変わらない。過ごしてきた時間そのものを置き換えてやる必要があるのだろう。
「もう、十分だよ……。ディノが力になるって言ってくれたとき、嬉しかった……。それだけで、あたしは満足だから……」
 目を疑った。僕はなにもしていないのに、情報の欠けた部分へ、死の数式が書き込まれてゆく。
 姉さんが涙を流す。その表情は、満ち足りた笑顔。
 ――駄目だ。姉さん。死んじゃ駄目だ。
「あたしのこと……忘れないでいて……ね。ディ……ノ……」
 姉さんの両手が僕の頬に触れる。その指を、光るものが伝っていく。
「おね……え……ちゃんと……の……やく……そ……く……」
 ――手が。
 ロミーナ姉さんの手が、離れてゆく――。

 ――そのとき、僕は目にした。暗号化された数式の、ある範囲が点滅していた。
 もう時間がない。このまま姉さんを死なせるくらいなら……!
 点滅している数式を一気に削除する。その部分が、変異の元凶であるような気がしたからだ。
 けれど、それは間違いだった。
 僕はすぐ、自身の犯した過ちに気づいた。
 そして――。



 歌声は今日も響いている。どこの国の歌だろうか。歌詞に使われている言葉は、隣国で使われている公用語とも明らかに違う。
 無数の人々が行き交う繁華街の一角。大衆酒場『石造り亭』の店先で重そうな木箱を運びながら、ローリーは今日も歌っている。よどみなく、美しいその声で。
「やあ、ディノ」
 ローリーが僕を呼んだ。間違えることなく、正しい呼び名で。
 思わず胸が熱くなる。姉さんが残してくれた最後の置き土産だ。にじみ出そうになる涙を抑え、僕は用件を切り出した。
「すまない、ローリー。大変なことになった。昨日の夜、姉さんの婚約者が街へやってきてね……」
「ロミーナさん、婚約してたんだ。うん。それで?」
 好きだ――と言っていたわりに、ローリーの反応は薄い。彼らしいといえばそれまでだけれど、恋心が本物だったのかどうかについては疑問だ。
「連れて行かれてしまったんだ。東にある遠い国まで行くって言ってた。多分、もう帰ってこられないと思う」
「そう……。そっか。うん、わかった」
「迷惑かけてごめん」
「……ところで、その子は?」
 ローリーが尋ねる。僕の傍らには、一人の少女が寄り添っていた。
 見た目は十歳くらい。髪はセミロング。勝気そうな瞳とピンと伸びた姿勢は、僕の記憶の中にある彼女とぴったり一致する。
「初めまして。ローリー君……さん。弟がいつもお世話に……きゃ! やめなさいディノ!」
 しゃべろうとした少女の頭を上から押さえ込む。
「……妹だよ。親戚に預けられてたんだけど、今日から一緒に暮らすことになったんだ」
「ちょっと! 妹とか親戚ってなんの話……痛い痛い! 離してってば!」
「や、やめなよディノ。嫌がってるじゃないか」
 手を離す。少女はジロリとこちらを一睨みした後、ローリーに向き直った。
「ロミーナです。ディノがいつもお世話になってるって聞きました。これからも、弟をよろしくお願いします」
「ん、ロミーナ? この子も? えっと、どういうこと?」
「複雑な家庭事情があるんだよ」
 もちろん全部嘘だ。
 姉さんが死にかけていたあのとき、僕はとっさに点滅していた数式を全て削除してしまった。次の瞬間、姉さんは子供の姿になっていた。
 直前で、僕は姉さんの年齢を十歳に書き換えた。暗号化されていたためわからなかったけれど、点滅していた数式は、十歳から先の過ごしてきた時間だったのだろう。
 思い出は失われた。でも、生き残った。それが姉さんにとって良かったのか悪かったのかはわからない。
 ただ、悲しかった。僕を好きだと言ってくれたその人は、もうどこにもいない。恐らくもう、逢うこともない。

 小さな姉さんと二人で繁華街を歩く。
「でも不思議。あたし本当に未来へタイムスリップしちゃったの? 童話の中じゃあるまいし、信じられない」
「僕にだって信じられない。でも、現実に姉さんは、僕が大人になったこの時代へやって来た」
 姉さんには嘘を教えてある。十歳のころ姉さんは行方不明になった、ということにして、タイムスリップ説を信じ込ませた。
 幸いにも、僕が『ディノ』だということはすぐにわかってくれた。その後は簡単だった。僕しか知り得ない姉の話を挟みつつ、帝都での暮らしや故郷の家がなくなったことなどを説明した。
 ――大人になったロミーナ姉さんを、本当は知っている。でも、この子は知らなくていい。彼女には彼女のこれからがある。
「お父さんとお母さんは、死んじゃったんだよね」
「……そうだよ」
「あたし、ずっと前からそのこと知ってたような気がする。……ううん、知ってたはずないんだけど、そのことでいっぱい泣いたような……そんなはずないのにね」
 そう。知っているはずがない。その時間は失われてしまった。けれど、もしかすると――。
「……ね。ディノ。手、つなごっか。ディノは覚えてないだろうけど、昔はよく、こうやって一緒に歩いたんだよ」
 ほんの少し顔を赤らめて、姉さんが小さな手を差し出す。そっと優しく、僕はその手を取った。
 もしかすると、どこかに残ったのかもしれない。あのときの気持ちが、どこかに、きっと――。

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