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~ディノ・ガレル~

 まぶたの向こうで、誰かの泣き叫ぶ声がする。
 この声は――そう、クレールの声だ。

 ――強い女性だと思っていた。
 僕より。ローリーより。ロミーナ姉さんよりも。
 どんなときも絶対に人前で弱みを見せたりはしなかった。
 ――それなのに。
 泣いてくれるのか。僕のために。
 嬉しくて……切ない。泣いているクレールを前に、なにをすることもできないなんて。この体さえ動くなら、彼女の涙を拭いてあげられるのに……。


 ――涙。
 ――涙。
 ――涙。
 多くの涙を見てきた。
 異形成腫活化病が蔓延するこの都では、安らかな死など望めない。涙を流す理由には事欠かないのが、アムルパーレという街だ。
 誰もが苦しんでいる。誰もが悲しみを抱えている。
 ――ロミーナ姉さんも。
 ――クレールも。
 ――ローリーも。
 ――エルメルも。
 悲しみに暮れる彼女らを。
 痛みに打ち震える彼らを。
 過去に苛まれるみんなを。
 僕は少しでも癒してあげられていただろうか。力になれていただろうか――。



 ――気がつくと、僕は石造り亭の前に立ち尽くしていた。
 心臓を撃ち抜かれたはずなのに、体調は悪くない。むしろ普段よりも体が軽い気さえする。
 歩き出そうとしたその途端、スラックスの裾を踏みつけてしまい、派手に転んだ。
「う……?」
 なんだろう。スラックスが……長い……?
 立ち上がろうと地面に手をついた。地面に置かれた自身の手を見て、僕は愕然とした。
 コートの先に……手がない。
 ……いや。手はあるけれど、袖の中に入り込んでしまっている。
 立ち上がり、袖まくりして自分の手を見つめる。細く、小さく、頼りない手の平が目の前にあった。
 ――すぐにピンときた。これはロミーナ姉さんのときと同じなんだ。
 誰かが赤の魔剣かなにかを用い、僕を幼少期の体に若返らせた。恐らくは、異形成腫活化病を治療するために。
 ……そうだ。僕は見放された者だった。その状態で、クレールやローリーと会っていた。
「ローリー?」
 辺りを見渡してみても、ローリーの姿は確認できない。彼はどこへ行ってしまったのだろう。
 確か……別れの言葉を聞いた気がする。生きているから安心してほしい……とも言っていた。僕は彼に助けられた……のか……? いったいどうやって……。
 ――ともかく、こうして考え込んでいてもが明かない。服がこのままでは歩きづらいし、一度家に帰って身支度を整えた方がいい。
 スラックスの裾をまくり上げ、コートを丸めて歩き出した。――と、十字路を曲がったところで、軍服を着た数人の男たちが通りへとなだれ込んできた。
 憲兵隊だ。誰かから連絡を受け、見放された者を『処理』しにやってきたのだろう。
「おい。この辺りで見放された者を見なかったか」
 先頭の憲兵が、威圧的な口調で尋ねてきた。
「誰とも会わなかったですが?」
 わざとらしく首を傾げてみせる。
 この憲兵らは『コートを着た成人男性が変異した』と聞いてここまでやってきたはずだ。今の僕を見て、見放された者と疑う可能性は低いだろう。
 その予測通り、憲兵隊はあさっての方向へと駆け出していった。それを尻目に、悠々と自宅へ向かう。

 ――沢山のものを失った。エルメルも……多分ローリーも、もう二度と会うことはないだろう。クレールとだって、仲違いしたままだ。
 あらゆるものが、この手からこぼれていく。家族も――友達も――大切なもの全てが失われていく。3年前のあの日から、ずっと……。
 未来に待ち受けているのは絶望だけかもしれない。これから先、失うことばかりを経験し続けることになるかもしれない。それでも僕は前へ進めるのだろうか。
 ……いや。
 どんなに大きな不安を抱えていたとしても、僕はきっと生きることを諦めたりしないだろう。
 世界は見放されてなんかいないと、『僕も』そう信じているのだから――。



 家の前にクレールが立っている。途方に暮れた表情で、じっと玄関扉を見つめて。
 ロミーナ姉さんに僕のことをどう話すべきか決めあぐねているのだろう。
「クレール」
 近づいて声をかける。クレールがこちらに気づいて振り向いた。
「……ん?」
 クレールは訝しげにじっと僕の顔を凝視して――――数秒後、目を大きく見開き、その場から飛び退いた。
「待ってクレール。僕はもう見放されてないよ」
 クレールを刺激しないよう、努めて穏やかに話しかける。
 まあ、警戒されるのも無理はない。ついさっきまでは見放された者だったのだから。おまけに体も縮んでしまっている。恐がるなという方が無理な話だろう。
「だって、おかしいでしょ。さっきは見放されてたのに……」
「脳が変異してたらまともに話せないよ。大丈夫――だと思う」
「……本当に」
 クレールの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「本当にディノなの……? 幻じゃなくて……?」
 こういうとき、なにを口に出せばいいのだろう。泣き出しそうなクレールの顔を見たら、言おうと思っていたことが全部、頭の中から消し飛んでしまった。
 胸がいっぱいで、気の利いた台詞が出てこない。最初に思い浮かんだ言葉は……『おかえり』だった。
「おかえりクレール。もう勝手にいなくなったら駄目だよ」
 なんだかひどく回り道をしてしまったけれど、こうして彼女は帰ってきてくれた。そのことが今、素直に嬉しい。
「……うん。ただいま」
 ――クレールが微笑んだ。
 こんなにも安らかな彼女の笑みを、僕は今日まで見たことがなかった。
 いつもどこか気を張り詰めていた彼女の心に、今ようやく触れることができた。
 僕は失うことばかりを経験してきたわけじゃなかった。手に入れたものも沢山ある。形には変えられない大切なものを――。
 クレールの顔をそっと両手で挟み込んだ。今は僕の方が小さいから、こうしなければ届かない。
 少し困ったように笑って、クレールが背を丸める。どちらからともなくまぶたを閉じ、唇を寄せ合う。
 多くの人が行き交う石造りの街中で、僕たちは長い口付けを交わした――――。


「それにしても、なんで小さくなっちゃったの? 後遺症?」
 僕の頭を撫でつつクレールが尋ねてきた。子供扱いされているようで、あまりいい気はしない。
「見放される前の状態に戻されたらしい。戻され過ぎて、こんな風になってしまったけど……」
 乳幼児まで戻されなくて助かった。もしそうなっていたら、ここまでたどり着くこともできなかっただろう。
「誰にやられたの? あの魔剣の子?」
「……ローリーだと思う。多分、見放された者の能力で治したんだろう」
「あいつ……」
 クレールが奥歯を噛み締めた。二人の間にどんなやり取りがあったか定かではないけれど、ローリーがしたことは彼女にとって想定外の行動だったらしい。
 話し声が家の中まで聞こえたのだろうか。不意に自宅玄関の扉が開かれ、ロミーナ姉さんが顔を出した。
「…………あーっ! ディノだ! あたしの知ってるディノだ!」
 姉さんが大きな声を上げ、外へと飛び出してきた。
「ディノもタイムスリップしたの?」
「僕の場合は若返りかな。体は小さくても、心は大人だったときのままだよ」
 ロミーナ姉さんは嬉しそうに笑っている。もっと驚かれるかと思っていたけれど、早くも順応しているようだ。姉さんからすれば今の僕の方が馴染み深い姿なのだろう。
「……で、これからどうするの? 戸籍とか作り直す?」
 クレールが尋ねてくる。
「21歳で通そう。体はそのうち大きくなるだろうし、今のままで問題ない」
 別人になろうとすれば、僕が大学を卒業した事実もなくなる。そうなれば書類を作成する仕事が請けられなくなってしまう。
「とりあえず一度着替えたいな。この服だと動きづらくて」
 家の中に入り、自室で短ズボンと襟付きの半袖シャツに着替える。腰が細すぎてベルトも合わないので、代わりに紐で縛り上げた。これでもかなり大きいけれど、普通に歩けるだけさっきよりましだ。
 靴はクレールが替え用として持っていたものを借りることにした。サイズは少し大きい程度で問題なさそうだ。彼女が小柄なおかげで助かった。
「ディノ! ちょっと来てディノ!」
 玄関先でロミーナ姉さんが呼んでいる。なんだかあわてているような声だ。
 靴のかかとを直し、早足で玄関へと向かう。
 玄関から外に出ると、クレールとロミーナ姉さんがこちらを向いた。二人とも不安げな表情をしている。
「なにか変なの……」
 ロミーナ姉さんがつぶやいた直後、タイミングを待っていたかのように、どこからか悲鳴がこだました。
「なんだ……?」
 様子を見に行こうとしたそのとき、今度は別の方向から叫び声が聞こえてきた。街中の至るところで声が響いている。
 近所に住む人や通りがかった人たちも、皆一様に緊張した面持ちを見せていた。いったいなにが起きているのだろう……。
 大きな影が僕たちの真上を横切った。思わず顔を上へ向ける。なにかが上空を飛び回っているのが見えた。
 空に舞う獣……。
 ――鳥……? いや……。
 この位置から確認できる獣の輪郭は、人間のそれだ。どういう物理現象が働いているのか。翼もない人の形をしたものが、空中を旋回している。
「――ディノ! あっち!」
 通りのずっと先を見て、ロミーナ姉さんが焦燥に満ちた声を上げた。視線の向こうには、くねくねと動く白い人の形をしたものがいる。
「こっちもみたい……」
 反対方向をにらみつけ、クレールがつぶやいた。振り向くと、大樽に手足の生えたような物体が、立ち並ぶ家々を手当たり次第に壊し回っているのが見えた。
 あちらにも、こちらにも、上空にも……。
 何度も見てきたからわかる。あれは見放された者たちだ。同時に三人以上も発症する光景を見るのは初めてだが……。
「冗談でしょ……。ローリーの言ってたことが本当になったっていうの……?」
 油断なく辺りに視線を走らせつつ、クレールがつぶやいた。
「ローリーは、なんて?」
「霧が晴れると、街が見放された者であふれるって……。でもそんなの、またいい加減なこと言ってただけだと……」
 街が見放された者であふれる……。その状況を、想定していないわけじゃなかった。エルメルが歌声の主を捕らえにいくと言っていたときから、こうなるかもしれないとある程度予測はできていた。
「以前、姉さ……いや、見放された者になった人から気になる話を聞いた。『歌を拒絶したから見放された』――って」
「歌って……死を招く歌声のこと? あれって、異形成腫活化病の元凶だったんじゃないの?」
「僕が見放されたとき、歌声は聞かなかった。この前の出兵で、歌声の主はどこかへ行ってしまったんじゃないかな。あるいは捕らえられたか死んでしまったのかもしれない」
 エルメルが出立したあの時点では『可能性がある』くらいの推論に過ぎなかったけれど……。実際にこうして見放された者が大発生してしまった。もはやここでまごついている猶予はない。とにかく動き出さなければ……。
「思うに、死を招く歌声は異形成腫活化病への抑止力だったんじゃないか。それが消えてしまって……今度は霧が出た。あの霧も歌と同じで、見放された者の発生を抑制するために放たれたんだろう。歌声が響かなくなってしまったから、誰かが霧を散布したんだ」
 なにか思い当たる節でもあったのか、クレールがハッと顔を上げてこちらに向き直った。
「――そういえば、あの霧。虹の眼の子が出してた……!」
「となると……この状況はまずいな……」
 やはりあの霧は、見放された者の発生を防ぐために、虹色の眼の少女が拡散させていたものだった。それが消えた今――また、死を招く歌声も響かない今は、全ての死者が見放された者と化す最悪の状況。
 死者が死者を生み、見放された者を大発生させてしまう恐れがある。
 魔剣を手にしているとはいえ、もう僕とクレールだけでどうにかできる話じゃない。周りの人らに避難するよう呼びかけながら、僕たち自身も早急に帝都を脱出しなければ。
「クレール」
 名前を呼ぶと、クレールは短くうなずいた。おろおろするばかりのロミーナ姉さんに「一緒に逃げるのよ」と声をかけ、右手に緑の魔剣を握り締める。
 そうして最初の一歩を踏み出そうとしたそのとき、クレールがなにかに気づいて立ち止まった。
「ディノ……! あいつが……!」
 クレールが目を細め、魔剣を両手で持ち直した。険しくなった視線の先に『最大の障害』が立ちはだかっていた。
 血染めの布を身にまとい、静かに佇む銀髪の少女――。
 物憂げなその横顔には、真新しい血がべったりと付着していた。疲れ切った虹の瞳で青空を見つめ、すぼめた口から息を吐き出している。
「なにしに来たの」
 一段低い声でクレールが尋ねた。それを受けて、少女がこちらへと振り向く。
「貴方がたを殺しに」
 左肩の辺りから右の腰へかけて、虹色の眼の少女が右手を素早く振った。真っ白なその手に、透き通った色の剣が握られていた。
「守るべき者はこの世を去り……果たすべき約束も失った……。故に私は本来の役割を果たします。全てを無に帰すという、本来の役目を……」
 語りながら、虹色の眼の少女が近づいてくる。早くも遅くもないペースで。
「憲兵たちを殺したの?」
「殺めはしません。が、剣のイモータルを欲する愚か者共々、それなりの報いは受けて頂きました。……哀れなものです。力に溺れる者の末路は皆」
 少女が歩みを止めた。距離は――飛び込めば僕とクレールに一太刀が届く程度。剣の間合いだ。
剣に拠りて生きる者は、剣に因りて死にゆくが定め――
 虹色の目の少女が両手で剣を静かに持ち上げ、水平に構えた。腕を曲げ、剣の柄をこめかみに引き寄せて、半身になりつつ強くにらみつけてくる。
「踊りて、うつろい、露と消える――。これも殺戮の化身たる私の宿命なのでしょう。なればこそ、私は最期まで戦わねばなりません」
 剣先をこちらに向けたまま、腰を深く落として静止する。滑らかで無駄のない一連の動作に、僕は思わず見入ってしまった。
「水のイモータルは大陸を沈め、6000万人の命を奪い……火のイモータルは原野を焼き払い、緑の地を砂漠に変えました……。私の存在もまた、世界を破壊するシステムの一端なのかもしれません」
 構えたその姿は、あたかも剣そのもののよう。一切の飾りを削ぎ落とし、人を殺傷するためだけの目的で作られた、一振りの刀剣――。色気はなく、ゆとりもなく、それでいて洗練された機能美がある。向けられた矛先に、吸い寄せられてしまいそうだ。
「さあ、始めましょう。石造りの街が榮域となる前に。互いの存命を賭けて、いざ尋常に――勝負ですよ」
 虹色の眼の少女は身構えたまま動かない。切っ先のように鋭い視線が、こちらをじっと捉えていた。
 ――僕たちを殺す? 本気なのか……?
 真意は読めないが、ただで逃がしてはもらえなさそうだ。足元に突き立った赤の魔剣をつかみ取り、構えないまま少女を見つめる。
 赤の魔剣は異常を検知してくれない。いつもなら見えてくるはずの数式が、虹色の眼の少女の周りには浮かんでこない。どうやら彼女は、存在として認識されていないようだ。これではなにをすることもできない。刀身を叩きつければ効果はあるかもしれないが……。
「――露草罔象女。万里を越えて押し寄せる波濤引く船をも揺るがさず、ただ眼前の敵のみを――――」
 虹色の眼の少女が、小さな声でなにやらつぶやき出した。よく聞き取れない……が、単なる言葉遊びに興じているわけではなさそうだ。
 ――尖った雰囲気が肌に突き刺さってくる。少女はつぶやいているだけなのに、殺気と緊張感が高まっていく。
 クレールも異様な気配を感じ取ったのか、いつでも動き出せるよう身構えていた。それに習って僕も重心を落とした。しかし、そんなことで魔剣の能力に対応できるのか……?
「――――打ち砕け!」
 少女が叫ぶと同時、藍の魔剣がまばゆい光を放った。――しかし、それ以外なにも起こらない。攻撃は飛んでこないし、少女自身が斬りかかってくるわけでもない。
「ディノ……。なにか聞こえない?」
 小さな声でクレールが尋ねてくる。耳を澄ますと、確かにどこからか音が聞こえてきていた。
 ……遠くから地鳴りのような音が近づいてくる。



続きは鋭意作成中です・・・

 
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